2026/05/09

拡張された先に、何が残るか

 前回、AIは身体的なインパクトがあった今までの革新とは少し質が違うと書いた。そのことについて、もう少し考えてみた。身体性は、全く関係ないのか?

身体性を全く問われない仕事、つまり完全にイマジナリーだとされる仕事のひとつに、やはり金融が出てくる気がする。お金という価値の仲介物を扱う仕事だからだ。紙幣や硬貨は存在するが、それらはあくまでも価値の表現・保存手段のひとつに過ぎず、本質的には無形のものである。そう考えると、AIの進出が最も早いであろう業種のひとつであることは、間違いないだろう。

では、究極的には、金融はAIの発展が突き進むと、無人の業種となり得るだろうか。それに対する自分の答えは、否、である。AIが診断や判断において人間を上回る精度を持ち得ることは認める。しかし、ここで問いたいのは精度の話ではない。誰が責任を負うのか、という話である。信用、顧客との関係性、危機対応——そうした場面において、どれほどAIが正確な判断を下せるようになっても、その結果を引き受ける主体が社会的に求められる限り、人間の介在はなくならない。責任を引き受ける、違和感を持つ、不完全な状態で決断する、といった行為は、人間の感覚という身体性を否定できない領域として残り続ける。イメージとしては、制度化された巨大装置を、人間の感応能力で補正し続ける産業としての金融である。命を救う高度な医療行為についても、同じことが言えるかもしれない。

こうして考えていくと、AIに委ねるべきは、人間の能力の拡張であって、人間の置換ではない。

ならば、拡張された人間の能力をより良くしていく営みは、どうなるのか。日本が得意としてきた「改善」という考え方は、このAI時代においてどう位置づければ良いのだろう。拡張の部分はAIが担う。そうすると残るのは、中核部分、つまり人間そのものをどう磨いていくか、という問いだ。「改善」をプロセスの話に限定せず、人間の内面を耕すこと、関係性を育てること、文化を醸成すること——そういった根っこに近い部分へと読み替えていくと、この問いはむしろ深まる。個人の力をどう引き上げるのか、組織としてどう継続していくのか。突き詰めると、文化をどう育てていくのか、という話が、AI時代においてより一層重要になる、ということなのではないか。

文化の話をするとき、注意したいことがある。文化は優劣で語れない。どの文化がどの文化に勝る、ということではない。ただ、優劣ではなく成熟や適否という軸で考えることはできる。人間を育てる力を、その文化がどれだけ持ち得ているか。倫理であったり、哲学であったり、宗教であったり、それを中心に考えていくための土壌は、大切にしていかなければならない。

もちろん、こうした個人や文化の問いに向かうことで、AIの恩恵と負担が社会的に不均等に分配されるという構造の問題——誰がAIの果実を得て、誰が職を失うのか——が見えにくくなる、という批判はあるだろう。それは正しい指摘だと思う。ただその問いは、制度や政策の文脈で別途正面から考えるべきものだ。ここではあえて軸をずらして、個人と文化の側から問い直すことを出発点にしている。その問いを、引き続き考えていきたい。

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