理解することと、許すことは同じではない。
理解は認識の問題であり、許しは価値判断の問題である。理解とは、物事がどのような要因を経てその結果に至ったのかを認識することであり、許しとは、その結果を自らの価値判断基準に照らして受け入れるかどうかを判断することである。
「許せない行動は理解できない」という場合、それは、自らの価値判断によって認められない行動が、自らの認識の範囲外で発生していることを意味している場合がある。すなわち、人の認識は、ある程度、自らの価値判断基準の影響を受けているのである。
では、その価値判断基準は何によって形成されるのだろうか。それは、過去の経験や獲得した知識によるところが大きい。それらによって倫理観が形づくられ、その倫理観に基づいて、「許される」「許されない」という価値判断が下される。
「許されない行動が理解できない」とは、その行動を生み出した要因から予想される結果が、自らの予想と一致していない状態である。そのとき、人は「要因から結果に至るまで、どのような決定経路を経たのか」を知ろうとする。この過程こそが理解である。
理解が進むにつれて、それまで見えていなかった前提となる要因が明らかになることもある。また、要因から結果を導き出す思考の関数そのものが、自らとは異なっていたことに気づくこともある。いずれの場合であっても、理解とは、自らの認識と現実との間にどのような相違があったのかを明らかにし、自らの認識を深め、必要に応じて修正する行為である。
では、その理解によって、自らの価値判断基準は変更されるのだろうか。
変更を受け入れる場合もあれば、変更を拒否する場合もある。拒否する場合には、そもそも要因の捉え方が誤っていると判断することもあれば、相手の思考の関数を理解した上で、それを誤りであるとして受け入れないこともある。いずれにしても、「誤りである」と判断する限り、価値判断基準は変更されない。
では、その正誤は何によって決まるのだろうか。
論理的矛盾のように絶対的な基準によって判断できる場合は比較的容易である。しかし、そのような絶対的基準が存在しない場合には、何らかの基準に照らして正しいか誤っているかを判断することになる。その判断の拠り所となるのは、すでに自らの内に保持している価値判断基準である。そのため、人は自らの価値判断基準を前提として、新しい理解を拒否してしまうことが少なくない。
一方で、自らの価値判断基準そのものを問い直すという立場もある。自らの価値判断基準が、過去の経験や知識によって形成されたものであることを理解しているならば、自らの知らないことが存在する可能性を認めることができる。そのとき、新たに得られた理解を通じて、自らの価値判断基準を補正することが可能となる。
このことから分かるように、理解することと許すことは同じではない。理解とは、現実に対する自らの認識を深め、必要に応じて修正する行為である。一方、許しとは、自らの価値判断基準を相手や出来事に適用し、それを受け入れるか否かを決定する行為である。
したがって、理解は許しの前提となり得るが、理解したからといって必ず許すとは限らない。理解によって認識は深まり、場合によっては価値判断基準そのものが見直されることもある。そして、その認識の変化が価値判断基準の見直しにつながったとき、初めて許しへと至ることがあるのである。
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